コラム | ものづくりの進化 | 歴史

50年前、ものづくりの進化へ貢献した取り組みとは?

メイン画像

日本のものづくりを支えてきた50年。1954年の創業以来、高度成長期やバブル崩壊といった経済の波を幾多も乗り越えて、切削工具の製造一筋でやってきました。その間、電子機器の微細化、高精度化へと世間のニーズは移り変わり、それに応えるためにも工具の進化は必須でした。

本コラムでは、何が日本の最先端のものづくりを生み出してきたのか、また競争力を付けるために必要な条件は何だったのか、など過去50年の歴史を振り返りながら、見ていきたいと思います。

戦後に個人経営から始めた工具づくりの道

1954年度の国内経済は、前年度に行われた財政圧縮と金融引締めの効果が表れ、国内消費は低迷したものの輸出は拡大しました。海外需要がテコになり、年度後半からは鉱工業生産、実質消費ともにそれぞれ3.5%、4.8%増に転じ、国内景気も回復していきました。

日本経済がインフレなき成長へと歩み始めていたこの年の12月、瀬谷啓次と後藤進二は、品川区南大井に日進工具製作所を設立し、終戦まで陸軍造兵廠へ切削工具を納入していた誉兵器の専務取締役であった瀬谷の技術をもとに、わずか3名でハンドル式鉛筆削り用カッターの製造をスタートしました。

片や営業担当の後藤は、新規顧客の開拓をしながら、オーダーメードのドリル、リーマー、エンドミル、スリッターへと取扱い品目も拡げていきました。戦災を免れた民家の一角に設けられた工場に、旋盤やミーリング、刃付研磨機などの工作機械が据え付けられ、連日フル稼働での生産が始まったのです。

社名の「日進」は、瀬谷の出身地である日立市の「日」と後藤進二の「進」を組み合わせたものでした。

戦後に個人経営から始めた工具づくりの道

1961年度の実質経済成長率は11.5%と、1959年以来3年連続の2桁成長を記録したものの、後半からは国際収支の悪化によって景気に陰りが見え始めました。しかし、貿易自由化を翌年に控えた産業界では、近代化のための投資が続けられていたのです。

その頃、日進工具製作所は、景気の波を受けながらも順調に業容を拡大していましたが、設備投資のための資金確保や取引先からの信用力向上を目指して、資本金120万円をもとに有限会社日進工具製作所を設立しました。

1962年頃から、商社や工具店との取引量が増え始め、わずか10名の社員は連日遅くまで残業を続け、受注品の生産に追われていました。中には、特別に急ぎの注文もありましたが、専務の後藤によるアイデアで、急ぎの度合いに応じて「ひかり」「こだま」という文字が大書されていました。これは、東京オリンピックと時を同じくして、1964年に開業した東海道新幹線の列車の愛称にならったものでした。

また、創業以来、多岐に渡る切削工具を受注生産してきましたが、より効率的な生産と低コスト化をめざし、1965年前後から、受注品目をエンドミルに絞り込むようになりました。

当時の主な製品は、右刃左ネジレ角15°の6枚刃エンドミル、テーパーエンドミル、直刃エンドミルなどで、その直径は大きいもので50mm、小さいものは3mmでした。
第1工場を設立し、稼動を開始した1969年7月頃には、30°ネジレ角のNKエンドミルも製造するようになっていました。

次回は、70年代の日本経済と歩調を合わせたものづくりの激動期をお話します。

ものづくりの進化

歴史

特集

TOP