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70年代に決断した自社ブランド開発への道

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1972年は、前年に行われた円切り上げによって不況の到来が心配されていましたが、大型財政予算と大幅な金融緩和策が効果を発揮し、景気は急速に上向いていきました。また同じ頃、長期政権の座にあった佐藤内閣が沖縄本土復帰を機に退陣、田中内閣が発足しました。その頃、日進工具は8月の社員総会において代表取締役社長に後藤進二、取締役に後藤勇の役員人事が承認され、新たな体制で事業展開に取り組むことになったのです。

米国ユニソン社製NC機導入に踏み切った!社運を賭けた想いとは?

当時、当社の製品はすべて受注生産でしたが、こうした事業形態は在庫を抱えなくていいという利点はあったものの、長期の事業計画を立てにくいという欠点がありました。さらに、1971年のドル・ショックなど、国内外の景気の波によって受注量が激変するという不安もあったことから、社長であった後藤進二はエンドミルの自社ブランド開発を決断したのです。

当時のエンドミルには高速度鋼(以下、ハイス)が使用されていました。大同製鋼のハイス(MOH8)を素材とするエンドミルは、切れ味、刃持ちともに優れており評価は高かったものの、その加工の難しさから一般的な炭素工具鋼製に比べ、高価格であるという欠点がありました。

1972年8月、後藤はハイスを高速でしかも正確に加工できる新たなエンドミル製造用機械の導入を決定し、当時、最先端の機械として知られていた米国ユニソン社のツルフルートNC機を購入しました。

当時について、社員であった瀬貫幹雄(現、株式会社新潟日進代表取締役社長)は、「月々の売上高が500万円前後のときに、900万円以上もの機械を導入すると聞き、社長に『大丈夫ですか?』とたずねたら、その問い掛けを振り払うように、『せっかく高性能の機械を購入するのだから、日進ならではの特徴ある工具を創ろうじゃないか』と言われました。製造の責任者だった私も社長の心意気に応えようと、2日間ほとんど徹夜でツルフルートNC機の操作方法をマスターしました」と語っています。

無名な会社が信頼を勝ち得た理由

ツルフルートNC機を購入した頃、スイス製エンドミルのネジレ角は30°が主流となっていました。瀬貫は、新しい機械でエンドミルの試作を連日繰り返すうち、切れ味と刃持ちに優れたネジレ角50°を作り出しました。1972年に、この製品を「パワーエンドミル」として商標登録しました。販売するにあたり、自社ブランドの販売ルートの開拓が急務となったのです。

「パワーエンドミル」の拡販に向けてダイイチと総代理店契約を結んだのを皮切りに、工具商に対する販売促進活動もスタートさせました。当時の取締役であった後藤勇ら2名の営業担当者は、車に製品を積み込み、北から南、東から西へと日本全国の工場、町工場を回り、経営者や職人の目の前で自社製品をテストして見せました。 社名を聞いたこともない当社の「パワーエンドミル」に当初は懐疑的でしたが、その切れ味を目の当たりにし、大手メーカー品に比べて価格は高かったものの、即決で購入してくれるところも多くありました。次第に、ユーザーの間で「日進はいい」「パワーエンドミルは切れる」という評価が次第に高まっていくこととなりました。

お客様からの要望が生んだヒット商品!

「パワーエンドミル」が市場に浸透するに連れ、エンドユーザーからの要望が直接当社の製造現場に伝わってくるようになる中、「チャックでシャンクを完全に締めつけないまま使ってしまい、刃の具合がおかしくなったので修理して欲しい」と製品が持ち込まれたことがありました。本来は3枚の刃が120°の開きで分割されていなければならないところ、再研磨に持ち込まれた製品は無理な使用方法のために、120°の開きに狂いが生じ、不等角の三枚刃となっていました。

PE-3パワーエンドミル

「パワーエンドミル」の生みの親である瀬貫は、そのエンドミルの角度調整を諦め、刃先が折れていた先端部分を切り落とし、再度刃付けをした後、試し切りを行いました。すると、意外なことに新製品のときよりも切れ味がよくなっていることに気づいたのです。

そこで、瀬貫は、3枚の刃の開きが異なるエンドミルを試作して切れ味のテストを続けた結果、刃の開きが不等分割の新製品の開発に成功したのです。当時、不等分割の切削工具は、リーマの例が文献にでているだけで、エンドミルとしては国内初の製品となったのでした。なお、この新製品は「PE-3パワーエンドミル」という製品名で発売され、それ以降、長年にわたり当社の主力製品となりました。

次回は、快進撃を続けた成長期について振り返っていきます。

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